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アメリカに根付くセカンドチャンス文化(2/2)

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こんにちは。管理人です。今回は前回のつづきでアメリカのセカンドチャンス文化の考察をしていきたいと思います。

4.キリスト教の施し
 前項では「セカンドチャンス」を与えるための制度的な枠組みを論じた。一方でアメリカ社会においては、「セカンドチャンス」を与えることについて、人々の間に共通する考えはあるだろうか。
 アメリカは多人種多民族国家であり、さまざまな価値観が存在する。しかしながら、アメリカには、人々に共有される価値観があるとも考えられる。それは、宗教であり、キリスト教である。アメリカ人の7割、もしくは8割は、キリスト教徒であると言われている。キリスト教とは、どんな宗教なのか。多くの宗教においては赦しが伝統的に美徳とされている。なかでも、キリスト教では、赦しが高く評価されている。なぜなら、キリスト教の神は悪を受け入れ、罪深い人間を赦す唯一の神だからである。

1957年8月19日、アーミッシュ居住区で2人組の若い非アーミッシュ男性が金銭目当ての強盗をし、農夫が殺される事件が起きた。この事件でもアーミッシュは犯人への憎しみを全く示さず、殺された農夫の家族は、犯人に復讐したい気持ちを持たなかった。殺された農夫の父親は、息子のことを思うのは辛いといっていたが、殺人犯に「神があなたをお赦しになりますように」と伝えたという。殺人犯は、裁判で死刑判決を受けた。しかし、アーミッシュから殺人犯の寛大な措置を求める手紙が殺到した。アーミッシュは、犯罪には報いが伴うべきだと考えているが、助命嘆願をしなければアーミッシュとして非難を免れないともしている。37 ここから、アーミッシュは犯罪者に対して、一生憎むのではなく、寛容な気持ちが必要だと考えていることがわかる。聖書のある一節には、もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない、という言葉がある。アーミッシュによると、アーミッシュの赦しはキリスト教の赦しそのものである。
 アーミッシュはアメリカ国内における少数派のクリスチャンであるが、一方でこれらの事件によって、多くのクリスチャンのアメリカ人たちが自らの信仰を省みることとなった。アーミッシュの小さな町ランカスター(ペンシルヴァニア州)で起こった事件は、多くの共感を呼び、赦しがアメリカのクリスチャンの多くに訴えかける判断であったことがうかがえる。

5.移民によるセカンドチャンス
 アメリカには、前章のような共有される宗教的価値観と同時に、世俗的価値観の中にも共有される特有のものがある。アメリカは、多人種多民族国家と呼ばれている。世界経済は今、国際的な労働力移動の時代に突入しているが、アメリカは、古くから外国人労働者を移民として受け入れ、市民権を与えてアメリカ国民にすることで、成長してきた国である。 移民には、様々なパターンがあり、家族で移住することもあれば、単身者、徒刑囚もいた。移民の多くは自由の身で、リスクも覚悟した上での移住であった。また、雇用主から渡航費用を前借りして、最初の数年は返済のために働く年季契約移民も存在していた。
  膨大な移民数と並んで注目すべきは、移民の多様性である。アメリカの移民は、ヨーロッパ人を中心としながらも、出身国の多様性で際立っていた。世界中からの移民が押し寄せることが、アメリカの最大の特徴だ。20世紀を通じてアジア諸国から、またアフリカ大陸や中南米からの移民も継続的に多い。

6.西部開拓によるセカンドチャンス(少し長くなります)
アメリカには地理的にも「セカンドチャンス」を後押しする環境があった。19世紀に一気に
広がった国土とその開拓のための移住である。1803年、アメリカは、フランスからルイジアナを購入した。ミシシッピ川からその西側、ロッキー山脈に及ぶ広大な地域である。これにより、アメリカ合衆国は、領土が倍増し西部開拓の足掛かりになった。西へ西へと領土を拡大していくことで豊かな生活を求める人達が移住、開拓をした。しかし、砂漠地帯が多く、なかなか農地を開拓することができなかった。20世紀に入ると、農業技術が進歩し、水があまりなくても農作物を作ることができるようになった。また、水を引き入れることに成功し、砂漠を農地に変えることに成功した。現在は、大きな用水路ができ、これを使って農地が開拓され、農業が盛んになった。 西部開拓は従来のやり方が通用せず、失敗の連続であり、未開の土地をどのように開拓すればよいか分からない状態であった。そのため、失敗を恐れずに何度も試行錯誤をした。しかも古い人間関係の助けを借りることができず、独立心を持った自身が行うしかなかった。そして、成功するために、何度もチャレンジをする精神が芽生えた。この精神は現在のアメリカ人にも「フロンティア・スピリット」として受け継がれている。西部開拓は、建国以来行われてきたが、19世紀に入って一気に加速した理由は3つあると考えられる。
 1つ目は、1848年1月にカリフォルニアのアメリカン川で金が見つかり、金鉱が発見されたことだ。アメリカン川で金が発見されると、金鉱脈目当ての開拓者が急増し、一攫千金を夢見てカリフォルニアに移住者が殺到した。これをゴールドラッシュという。1848年8月にサンフランシスコの人口は約6,000人になり11月には、1万5,000人へと急増した。人口が増えたことで、衣食住が間に合わなくなり、多くの人はテント暮らしを始め、食糧不足で身体が弱ったりした。そのため冬の時期は命を落とした人も少なくなかった。また、どの採掘場でも下痢や赤痢、壊血病が蔓延した。
 2つ目は、ホームステッド法である。西部の未開拓地で5年働けば、160エーカーの土地を無償で得られるというものだ。1862年エイブラハム・リンカーン大統領により公布された。こうして西部に土地を得たい人々の開拓を目的とした移住が始まった。55 この背景には南北戦争がある。南北戦争の原因には、北部と南部の間に経済・社会・政治的な違いがあり、奴隷制を否定し保護貿易を求める北部に対し、奴隷制を肯定し自由貿易を求める南部が連合国として独立しようとして、北部と戦闘状態に入った。これはアメリカ合衆国に起こった史上唯一の内戦である。北部では、1812年の米英戦争により、英国工業製品が途絶したため、工業化が急速に進展した。流動的な労働力が必要なため奴隷制は受け入れられなかった。工業が基盤であったため、ヨーロッパ製の工業製品よりも競争力を優位に保つため保護貿易が求められた。南部では、農業中心のプランテーション経済が盛んで、特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人奴隷労働により支えられていた。南部の綿花経済の発展は英国の綿工場(繊維工業)発展による需要に支えられていたため、英国中心の自由貿易を求めていた。アメリカの上院では各州から2名ずつの議員が選出されている。このため、奴隷制度を禁止するか、しないかの決定は、上院の議員数に直接影響を受けるため、西部開拓が進むことで新しい州を巡り、自由州か奴隷州にするかで南北が激しく対立した. 西部では独立自営農民が中心となりながら工業化が始まっていた。
そのようななか、ホームステッド法により、西部開拓者は、自営農民として開拓した農地を無償で提供することを決定した北部を支持した。南北戦争は北部が勝利し、幕を閉じた。
 3つ目は、大陸横断鉄道の開通である。ホームステッド法が成立したことで開拓者が増加した。また、南北戦争後は、ヨーロッパからの移民が続々と到着した。鉄道は開拓者や移民を安全に西へ運ぶことで、農村を都市に変えていく役割を果たした。

 このように西部開拓は、アメリカに新しい価値観を与えた。しかもこれは新しい土地を持たない旧世界では発生しえないものをもたらした。自主独立で何度も挑戦しなければならない一方で、開拓者たちはそれまでの人生を知られることもなかった。新しい土地で新しい人間としてやり直す機会は、自立した開拓民である限り与えられた。そしてそれは「フロンティア・スピリット」としてアメリカの伝統の一部となった。

おわりに
 いかがでしたでしょうか。最後にアメリカンドリームについて少し語りたいと思います。新天地で成功したいアメリカンドリームとチャレンジ精神がセカンドチャンスと関係があるのではないかと考えた。アメリカは機会の国、成功の国といわれる。成功には個人的努力が必要である。一般に「アメリカンドリーム」とは、ボロから富へという成功神話だと考えられがちだが、社会の底辺に入った移民たち、西部開拓者の夢はもっと地味なものだった。現状よりも、もっとましで安定した生活をしたい、平凡だが幸せな家庭生活を築きたいというのが、彼らの「アメリカンドリーム」であった。このために彼らは地道な努力を重ねた。 アメリカがセカンドチャンスを与える国になったのは、人々に共有される価値観やアメリカという国家の形成過程に、関係していることが、第2章、第3章から考えられる。だが、なによりもアメリカ人が母国をより一層よくするために努力した結果がセカンドチャンスを与えるようになったのではないか。アメリカの移民や西部開拓者は自らの暮らしの向上を求めた人々であったがその努力は母国を豊かなものにした。豊かな母国の共同体において、新参者に機会を与えることが、母国自らのさらなる向上につながっていた。過去にとらわれず人々に機会を与えたことで、アメリカは豊かに成長してきたと言えるのではないでしょうか。

それでは次回をお楽しみに!✋

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