こんにちは。管理人です。最近なかなかネタが無くて困っているのですが、日本では将棋の藤井壮太さんがタイトルを獲得し話題になっていますね。そこで今回はアメリカで幻の英雄の異名を持つ天才チェスプレイヤーボビー・フィッシャーについて解説したいと思います。
生い立ち
ボビー・フィッシャー(Bobby Fischer、1943年3月9日 - 2008年1月17日)は、アメリカ合衆国のチェスプレーヤー。チェスの世界チャンピオン(1972年 - 1975年)。本名ロバート・ジェームズ・フィッシャー(Robert James Fischer)。
1943年3月9日、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにおいて誕生。その後ニューヨークのブルックリンに移住。母親のレジーナ・ウェンダー・フィッシャーは当初ハーマン・J・マラーに秘書として雇われたが、マラーに才能を見い出されて、医学を学ぶように薦められた。父親のハンス・ゲルハルト・フィッシャーは、ハーマン・J・マラーと共にモスクワの大学へ招聘された生物物理学者である。2人はモスクワで結婚し、娘のジョーンが生まれた。しかし、ソ連で反ユダヤ主義が広がり出すと、ユダヤ人の2人はパリへ移住した。後にレジーナは離婚し、国籍を持っていたアメリカへ子供を連れて移住するが生活は苦しく、ジョーンを父親に預けていた。また、シカゴの病院でロバートを出産した時には、ホームレス同然だった。出生証明書にある父親の記入欄にはハンスの名が記載されているが、彼は生涯アメリカに入国したことはなかった。1949年(6歳)、ボビーの姉は、落ち着きのない弟を静かにさせるため、1ドルのチェス・セットを与えて、チェス・ゲームの簡単なルールを教えた。そこでボビーは、すぐにチェス・ゲームの虜となった。1957年(14歳)、インターナショナル・マスターとなる。 翌年(1958年、15歳)、グランドマスターとなる。15歳でのグランドマスターは、世界最年少記録だった。だが、1962年(19歳)、国際舞台から引退した(但しアメリカ国内の大会には出場した)。
プレー・スタイルにはボビー・フィッシャーならではのものがある。例えば、1956年の対ドナルド・バーン戦において、クイーンをわざと捨てることで、勝利した。また、1963年の対ロバート・バーン戦においても、ナイトを捨てて勝利した。しばしば、「天才」と称えられるようになっていた。
世紀の一戦
1972年、時は米ソ冷戦期。当時ソ連と宇宙開発やオリンピックで競っていたアメリカはソ連にに勝てるものを探していました。それがチェスだったのです。フィッシャーはアイスランドで開催された世界選手権でソ連のボリス・スパスキーと戦うこととなります。
第一戦、フィッシャーはスパスキーの実力を初めて目の当たりにし、その強さに困惑。負けてしまいます。第二戦、フィッシャーは会場に姿を現さす、まさかの不戦敗。これにはアメリカ政府も腰を上げます。当時の大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャーが自らフィッシャーに対して激励の電話をかけます。そして迎えた第三戦、フィッシャーは我を取り戻し見事スパスキーに勝利。その後も勝利をおさめ、見事世界チャンピオンとなります。
長い隠居生活
帰国すると多くの祝電・祝辞を受けたフィッシャーでしたが、楽しみにしていたホワイトハウス訪問はできませんでした。これを機にフィッシャーは自分は政府に駒として扱われたと認識し、人間不信になり、長い隠居生活に入ります。
少女ツィタとの出会い
ただし途中で一度、表舞台に出てきたことがある。ハンガリーの17歳の女性チェスプレーヤーから「なぜプレイしないのか」という手紙を受け取ったことをきっかけに、その少女と交流が生まれ、彼女の根回しによって1992年にユーゴスラビアでスパスキーと再現試合を行なった。フィッシャーは試合前に、アメリカの当局から「試合に参加するな」という警告の手紙を受け取ったと公表し(アメリカ政府はボスニア問題に絡んでユーゴスラビアに対して経済措置をとっており、アメリカ国民が同国において経済活動をすることを禁止していた)、記者会見でその手紙に唾を吐いて挑発的な態度を見せた。フィッシャーはこの試合に見事勝利し、300万ドル以上の賞金を得た。アメリカ政府は「ユーゴスラビアに対する経済制裁措置に対する違反だ」として起訴し、フィッシャーのアメリカ国籍を剥奪した。彼は後に「この起訴は反ユダヤ的発言と反米発言に対する政治的迫害である」と語った。これ以降彼は再び表舞台から姿を消した。
公にはならなかったが、フィッシャーは10年以上にわたりハンガリー、スイス、香港、マカオ、韓国など世界の様々な場所を転々としており、2000年ごろまでにはフィリピンと日本が主たる拠点になっていたという。2000年から日本では元日本女子チェスチャンピオンで日本チェス協会事務局長の渡井美代子と、フィリピンでは元フィリピンチェス協会会長らの支援でマリリン・ヤングという若い女性と暮らしていた。
晩年
反米発言をしたことでアメリカは彼をテロリスト予備軍的な扱いをしました。2004年7月14日、成田空港からフィリピンへ出国しようとしたところを入国管理法違反の疑いで東京入国管理局成田空港支局に収容された。フィッシャーが久しぶりに表の世界に登場したニュースが世界中を駆け巡った。同年8月、かねてより同棲していた渡井との結婚を宣言した(2000年来彼女の家で同居し事実婚とされた。法律婚はしなかった)。『タイムズ』の記者に対して、渡井は「ふたりは普通に生活している」と言い、フィッシャーは日本の生活に良く馴染んでいる、と言ったという。そしてフィッシャーは、医薬品や医者に頼ってしまうよりも温泉で癒すほうを好む、自然な発想の持ち主だ、と渡井は語ったという。
その後、アメリカ政府は身柄引き渡しを要求したが、フィッシャーはそれを拒否していた。パスポートが失効した状態で、なおかつ他国での市民権も確保されていない状態で、彼にどのような状況打開策が残されているのか非常に不透明な状況になった。各地でフィッシャーを支持する人々がこの状況を何とかしようとした。例えば、ボビーの父親の故郷で、フィッシャーが国籍を取得できる可能性もあると思われたドイツなどでも、フィッシャーの国籍確保のために運動を起こす人々がいた。日本でもフィッシャーを守ろうとする人々が現れ、元外務政務次官でチェス愛好家の石井一二、ジョン・ボスニッチ(John Bosnitch、東京在住のセルビア系カナダ人のジャーナリストでチェスの元ジュニアチャンピオン)、羽生善治、民主党の榛葉賀津也や社民党の福島瑞穂といった人々が支援した。こうした運動が功を奏し、2004年12月、アイスランド政府が人道的見地からフィッシャーに対して市民権を与える措置をとり、拘束から約8ヵ月後の2005年3月24日、日本政府はアイスランドへの出国を認め釈放し、アメリカ政府もこれを認めた。以後はアイスランドに滞在し、静かな余生を送った。ごく親しいわずかな人以外とは交流せず、一般には理解しがたい特異な考え方や過激な発言から、地元民からは「助けが必要な精神的な病を抱えた人」と見られていたが、チェスの天才としてあたたかい目で見守られてもいた。肝臓病により2008年1月17日に死去。64歳没。
いかがでしたでしょうか。フィッシャーの栄光からの転落劇は小説「完全なるチェス」でも語られています。また、「完全なるチェックメイト」という題名で映画化もされています。
藤井さんにはこんな人生は歩んでほしくないですね。しかし、天才にしか理解できない常軌を逸脱した世界があるんだなと思わせられますね。
出典:https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/a237350/cfe-serching-for-bobby-fischer170702/
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