先日の4月15日は本来なら全てのメジャーリーガーが42番のユニフォームに敬意と共にそでを通すはずだった。MLBでは毎年4月15日をジャッキー・ロビンソン・デーとして黒人初のメジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンに敬意を払う記念日としている。そのジャッキーの話を描いた映画が『42ー世界を変えた男』である。
生い立ち
1919年1月31日ジョージア州カイロで5人兄弟の末っ子として生まれる。祖父はアフリカから連れてこられた奴隷である。生後6カ月の頃に父が蒸発したため、カリフォルニア州パサデナへ移住した。母はメイドとして働いたが、週8ドルの収入では家族を養うことができなかったため、生活保護を受けた。
兄のマシューは1936年ベルリンオリンピックの200m走で銀メダルを獲得。ロビンソンもスポーツ選手として頭角を現し、フットボール、バスケットボール、野球、陸上の4つのスポーツで奨学金をもらい、高校へ進学。1937年にパサディナ短期大学(現・パサディナ市立大学)へ進学し、1938年には午前に走幅跳で優勝し、午後に野球の試合に出場して優勝することもあった。その後、多くの大学から奨学金を提示されたが、最も条件の良い大学ではなく、自宅から通えることを理由に、1939年からはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ進学した。UCLAではバスケットボールも行っており、ウディ・ストロードともチームメートだった。UCLAでは将来妻となるレイチェルと出会った。ロビンソンは黒人が仕事に就くのに学問が役に立たないと考え、母やレイチェルの反対を押し切り、1941年3月に名誉退学する。その後第二次世界大戦のため、1944年まで陸軍に所属することになる。
メジャーリーガーとして
1947年4月10日、ドジャースは「モントリオールのジャック・ルーズベルト・ロビンソンをメジャーに昇格させる。彼は直ちにチームに合流するだろう」と発表。開幕戦の4月15日に本拠地のエベッツ・フィールドには26,623人の観客のうち半数以上の14,000人はロビンソンを見ようとする黒人だった。そしてロビンソンはアフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーとしては1884年のモーゼス・フリート・ウォーカー以来63年ぶりにメジャーデビューを果たした。
MLBのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団がロビンソンがメジャーでプレイすることに反対しており、フィラデルフィア・フィリーズはドジャースとの対戦を前にロビンソンが出場するなら対戦を拒否すると通告したり、セントルイス・カージナルスも同じように脅したりした。それに対し、ハッピー・チャンドラーコミッショナーはドジャースを支持し、フォード・フリックナショナルリーグ会長は対戦を拒否したら出場停止処分を課すと発表し、問題の鎮静化を図った。監督のレオ・ドローチャーは「自分は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。自分はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし自分に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と語った。
開幕前、チームメイトのなかにはロビンソンとプレイするのを嫌がって移籍した選手もいたが、ロビンソンは常に紳士的に振る舞い、シーズンが始まるとトレードを志願していたディキシー・ウォーカーがロビンソンに打撃や守備について教えるようになるなど、シーズン終了時にはチームメイト・監督・報道陣から受け入れられるようになった。9月23日にはエベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催された。シーズンでは一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年より制定された新人王を受賞した。
ロビンソンとドジャースの功績
当時のブルックリンドジャースが周囲の批判を押し切り彼をチームに向かい入れるのだが、ジャッキーは差別と闘いながら実力を見せつけ、次第に認められるようになっていく…というストーリーだ。当時のドジャースが成し遂げた功績は計り知れないほど大きい。当時の常識であったカラーラインを否定し、人々の常識を変えたのだから。私はこの映画を見てスポーツチームの社会においての在り方、役割を再認識させられた。
今、世界中でコロナウィルスとの闘いが繰り広げられている。こういう時こそスポーツチームが社会的役割を果たし、自らの社会的価値を高める時だと思う。欧州のとあるサッカークラブはスタジアムを検査所として開放し、アメリカのNFLクリーブランド・ブラウンズは今シーズンのジャージの売り上げの純利益100%を寄付すると宣言した。日本でも何らかのアクションを起こすチームが次々に出てくることを期待したい。
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